会報58号掲載寄稿のフルテキストバージョンです>

戦争中の武蔵高校での生活 − 勤労動員と空襲の日々

景山 眞(19期理、旧姓佐々木)

 昭和十五年四月私は武蔵高等学校尋常科に入学した。この学校で七年を過ごし、四年間の太平洋戦争と敗戦後の窮乏生活を経験した。ここでは戦争中の体験を振り返って見よう。

 入学当時すでに日本は中国大陸に軍隊を送って戦争をしていたが、内地では平穏な生活が送られていた。ただし現在とは違って、学科目の中に「教練」があった。陸軍省からの配属将校(佐官)と学校所属の教官(尉官)の指導の下、軍事訓練が行われた。入学当初は敬礼、整列、行進など楽なものだった。学年が上がり、戦局が厳しくなるにつれ、教練の時間が長くなり内容も実戦的になった。しかし武蔵では暴力的指導とか、懲罰的訓練などが行われることはなかった。

紀元は二千六百年 開戦直前

 一年生の一学期終了後、軽井沢の寮で二週間の合宿を行った。楽しく有意義な体験であった。

 秋になって、世の中は急速に変化する。日独伊三国同盟締結、大政翼賛会発足、そして皇紀二千六百年記念式典と続く。学校の校友会も文部省の指導で武蔵高等学校報国団と名前が変わる。

 年が明けて二月、海軍報道部長の平出秀雄大佐が武蔵に来て時局講演をした。話上手で当時新聞ラヂオに名の売れた人であった。「今日本は東亜新秩序建設のため戦っているが、アメリカ・イギリスはこれを邪魔して蒋介石を助けている。そのうち日本に禁輸を行うなど妨害を強めて来るだろう。さらには潜水艦で我が国の船を攻撃してくるかも知れない。そうなったら帝国海軍は決然起ってこれを撃滅する。我に二千の艦艇、四千の航空機あり」。

 昭和十六年四月、二年生となった。米配給制になり、隣組制度発足。小学校は国民学校となる。

 七月、一学期が終わると、二年生は外房の鵜原にある海浜学校で二週間を過ごすことになっていたが、文部省の通達で突然取りやめとなり、二泊三日で帰って来た。その理由は説明されなかった。この夏、アメリカは日本の資産を凍結し、また石油の対日禁輸を決めた。これにイギリス、オランダも同調し、いわゆるABCD包囲網が形成された。平出大佐の予言の如くに進んで来た。

 九月になると事態は大きく動く。Wakefield先生が帰国するなど、在日英米人の故国への引揚げが報じられた。秋も深まる頃、ゾルゲらのスパイ事件が公表され国民に大きなショックを与えた。十一月英語の三和先生が徴用された。後で判ったことだが、英語の通訳として陸軍に召集されたのだった。そしてほどなくその日がきた。

緒戦の興奮

 十二月八日朝、私は通学のため池袋から乗った電車の中で開戦を知った。その日学校では米英との戦争が当然話題になったはずだが、残念ながら記憶がない。家に帰ったとき母が「アメリカと戦争なんかして大丈夫かしら」と心配そうに言うのが心外で、私は「絶対勝つよ、大丈夫」と答えたのだけを憶えている。ラヂオは繰り返し同じニュースを流す。大本営陸海軍部発表「帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」。

 その夜遅く真珠湾攻撃の大戦果が発表された。海軍の航空戦隊がハワイを奇襲し、米戦艦一隻轟沈、戦艦一隻大破その他地上基地の爆撃など・・・。轟沈という言葉は戦時中一種の流行語となった。十日にはマレー沖海戦があり、イギリスの新鋭戦艦プリンス・オブ・ウエールスを撃沈、戦艦レパルスを瞬時にして轟沈させた。緒戦のこの戦果に、少なからぬ人たちが抱いていた戦争の行方に対する心配は何処かに消し飛んで、勝てるという楽観が国民の中に拡がったように思う。この戦争を大東亜戦争と呼ぶことに、毎月八日を大詔奉戴日とすることに決められた。

 十二月二十五日香港が陥落し、昭和十七年一月初めマニラを占領、戦線は南の諸島へ拡大して行く。二月十五日シンガポールも陥落し、この街は昭南市と改称された。二月十八日戦勝祝賀会が行われ、山本良吉校長は天皇陛下に賀表を奉呈した。

初空襲

 昭和十七年四月、三年になり制服は長ズボンになった。教練では国防色の教練服を着、ゲートルを巻き,三八式歩兵銃を持たされる。私は体が小さかったので騎兵銃だった。

 戦況が有利と思っていた国民に冷水を浴びせるような事件が起こる。空襲警報が発令される前に敵飛行機が東京に現れた。昭和十七年四月十八日(土)学校からの帰り道、江古田駅のホームにいた時、南の空、武蔵の方角に見慣れない飛行機一機(中型?)を見た。低空で西から東へ飛行、敵機ではないかと直感した。数分後味方の戦闘機が二、三機、頭の真上を東から西へと飛んだ。さっきの敵機とは遭遇しなかったのだろうか? 池袋へ帰る電車の中から空を注視し続けていたが、敵機らしい影は見えなかった。軍の防空体制の大失態であったが、当時の新聞などにはそれを責める意見や被害の実態など載らない。早稲田の鶴巻町がやられたとの噂を聞いた。この空襲の後ちょっとした事件があった。来襲したのはドウリトル大佐の航空隊だったが、時の陸軍報道部長が次の談話を発表した。「ドウリトル大佐は少しは仕事をしたので、ディッドリトル大佐と呼んでやろう。しかし次に来る敵将はドウナッシング大佐となるであろう」。英語を使うとは何事かという反発が軍部から出て、この報道部長は直ちに更迭された。

 六月、ミッドウェー海戦。彼我の損害をほぼ同等とした大本営発表は嘘で実は日本海軍は一方的に壊滅的な打撃を受けていたのである。厳重な情報管理のなかでも、真実は少しずつ漏れだして来る。一高教授の柳田友輔先生は私達に生理学を教えていたが、ある時次のように話してくれた。アメリカは電波探知機を完成させていて、ミッドウェーではそれを使って日本艦隊の攻撃を察知し、いち早く待避して、留守になったわが航空母艦群を攻撃し大損害を与えたのだと。(現在では暗号解読のためと考えられているようだ)。これ以後戦況は一転し日本軍は劣勢に。

 武蔵の二年生が海浜学校から帰った後の八月上旬、三年の我々も昨年の埋め合わせとして十日間ほど鵜原の寮で過ごした。まだ戦火は本土に及ばず、戦運の傾きも知らず、水泳の練習に楽しい時を過ごした。

 十一月に私たちは勤労動員を受け下谷の凸版印刷で働いた。仕事は国債の印刷であった。野牛晃君が印刷中の国債に間違いを見つけ、急遽輪転機を停めるという事件があり、工場の幹部から大いに感謝され表彰された。

 昭和十八年に入るとアメリカの反攻が強まり、日本軍はガダルカナルから転進(退却)を余儀なくされた。三月、私は新潟県妙高山麓の燕温泉にスキーに行った。武蔵の山岳部主催の行事で、藤村信次、佐藤新一、森五郎先生などと生徒三十名ほどが参加した。東京からは姿を消していた汁粉などが食べられた。

緊張 〜 動員と出陣

 昭和十八年四月、四年になった。尋常科最後の学年なので普通の試験以外に英語の特別試験があり、勉強が大変だった。加納先生、横井先生、丹原先生、各々週に二時間、ガントレット先生の会話週一時間であったが、ほかに特別試験用には英語熟語集兼入試問題集が一冊与えられ、各自自習して試験を受ける。 同級の川村俊夫君は電車の中で英語の勉強をしていて、陸軍の将校に見とがめられた。英語が週に七時間と答えたら怪しからんと怒鳴られたそうだ。

 四月、連合艦隊司令長官山本五十六大将が戦死する。国葬。五月、アリューシャン列島のアッツ島の守備隊が玉砕する。指揮官山崎大佐は二階級特進。

 学校でも地域の隣組、町会でも防空演習が真剣に行われるようになる。バケツ・リレーで火を消す練習をする。一年上の氏家昭美さんはバケツの水を遠くにかけるのが上手で、学校の演習では指導者になり、防空の本まで著していた。

 六月、四年生の実弾射撃の演習が戸山ヶ原の射撃場で行われた。長い蒲鉾型でコンクリート造りの屋内で、百メートルほど先の的に向け三発ずつ撃つ。私の成績は七点、三点、二点で計十二点だった。通常教練に使う銃ではなく特別に手入れされ保管されていた射撃銃を使った。

 七月、高戸海軍主計中尉が学校でソロモン海戦(前年夏)の話をした。学徒出身で話上手、夜の海戦での曳光弾の描写など生き生きとしていた。(2005.1.18朝日夕刊に記事あり)。


 この夏から勤労奉仕に動員されることが多くなった。陸軍の十條補給廠では雑役に従事、その後東上線沿線(現在の和光市付近?)の飛行場建設に数日間働かされた。十一月末には一週間ほど東京鉄道局品川検車区に列車の清掃作業に動員された。東京駅に到着した長距離列車がそのまま回送されて来る。背の高い生徒は外側を洗い、残りは車内を掃除する。サビを落とすのにシュウ酸を使うことを知った

 秋には学徒出陣壮行会が神宮外苑競技場で行われた。私の学年からも十名前後が歓送側として参加した。徴兵年齢が十九才に下げられ、文科系学生には徴兵猶予がなくなったのだ。

 十二月、そんな中でもスキーに行けたのはちょっと意外ではある。さすがにこの度の合宿は雪上訓練と称して、軍隊式に行われ、毎朝ゲレンデに整列して、藤村先生に「かしら右」と敬礼をしてから「訓練」を始めるのだった。それでもスキーはスキー、大変楽しかった。山岳部主催のスキー合宿は昭和十九年三月に行われたのが最後になったが、私はこれには参加していない。

 昭和十九年二月、一般の中学から武蔵の高等科に入学希望する者に対する編入試験が行われた。時局柄志望者が殺到し理甲は四十倍、理乙と文科は二十倍と記録的な倍率となった。

高等科一年 寮生活

 昭和十九年四月武蔵高等学校高等科理科甲類に進級した。理甲は人数が増えたため初めて二組に分かれた。高等学校の課程は本来三年のところが二年に短縮されていた。そのうえ勤労動員があるので実質一年程度しか講義をうけられないことを覚悟しなければならなかった。

 私は愛日寮に入った。寮は校庭西側、グラウンドを見晴らす位置に立っていた。建築当時は瀟洒な外観であったろうが、私が入ったときは色あせ、窓ガラスをとめるパテもひびだらけの木造二階建だった。八畳間が九室あった。愛日寮の裏に同様な作りの双桂寮があり、その間に共通の食堂と賄いの住居があった。双桂寮は当時の高等学校一般のバンカラ風を誇っていたが、愛日寮は真面目で紳士的な生活を目指し、二つの寮は互に張合っていた。

 寮はどちらも完全な自治制で、寮生の相談で総務、会計等の分担を決め運営されていた。私が入寮した時、愛日寮は極めて規則正しい生活をしていた。朝六時に起床、寮の前の芝生で体操。分担して便所、洗面所、玄関、廊下など共通部分の掃除をする。その後各自の部屋の掃除を行う。済んだら当番の部屋に集まり正座、黙想をする。七時半頃全員揃って食堂で朝飯、そのあと八時二十分からの授業に出る。週一回会合を行い、寮生活に関する相談をし、読書会その他の行事を決めた。しかしこのような生活は私が入って半年位までで、後は大分乱れてしまった。長期勤労動員とあいつぐ空襲のためだ。五月からは高三生が日立戸塚工場に、七月からは高二生が志村の日東金属工業に、九月には文一生が高三生の繰上げ卒業と交替に日立に動員された。以後高等科では理一生だけが学校で授業を受けることになる。

 十九年五月中旬の六日間、軍事教練で富士山麓板妻厰舎に行く。陸軍兵士と同様の各種戦闘訓練、内務班教育、歩哨、不寝番などを経験。朝露の草原に匍匐した時は全身びしょ濡れ。それでも合宿は楽しく、新しい友人と親しくなった。

 六月下旬には埼玉県大里郡大寄村への農作業(主に麦刈り)に出動した。私は川村俊夫君と二人である農家に配属された。私達が麦を刈る速度は五十台の夫婦、長男(出征中)の嫁、次男には勿論、七十台の腰が直角に曲がったお爺さんにも及ばなかった。

日記に見る戦中生活

 昭和十九年の七月一日から私は日記をつけ始めた。戦後病気をした時期を除いて昭和二十二年三月に卒業するまで日記は続き、今もそれは私の手許にある。以下はその日記からの抜粋。

(寮の食事が量質とも貧弱なので、寮生は別ルートで食料を手に入れ、部屋に何人か集まって食べていた記録が極めて多いが、この大部分は省略。また旧制高校生らしく教養書や文学書をよく読んでおり、長期勤労動員に入って講義がなくなってから、その傾向がつよい。新刊書などない時代、外国文学であれ、日本文学であれ、親戚や友人から借りられる本を手当たり次第、脈絡なく読んでいる。これら読書歴も大部分を割愛した。なお漢字と仮名使いは現代風に改めた。カッコ内に記したのは注釈)


七月四日(火)曇時折雨涼 一限に警戒警報発令で授業停止、寮に戻る。硫黄島に空襲、夜十二時より二時(学校の)不寝番にあたる。

七月七日(金)晴涼 夜十時半過ぎ床に入った途端に双桂のストームが来た。前の芝生に出て寮歌や富士の白雪を歌って大ストームを展開した。双桂が引き上げて後、愛日だけで寮歌を歌っていたら、突然傍らに声あり「よし、やめ」。ぎょっとして見ると暗闇のなかに三和さん(寮の舎監、家が寮から近かった)が立っていた。何していると聞かれ、二年の壮行会と答えた。

七月八日(土)晴暖 大詔奉戴式のあと、高二生(十八期)の作業の壮行会(日東金属工業)。

七月十三日より十九日まで期末考査。

七月十五日(土)曇暑 朝七時応召の紙田さん(剣道、教練)見送りに江古田駅に行く。新しい軍服に日本刀、真白な手袋という颯爽たる出で立ち。午前中物理試験、水平飛行時の投弾の際の高度と、速度と、距離および照準角の関係をもとめよ、ほか三題。

七月十八日(火)曇暑 一、二限製図、三限独文法の試験。サイパン島の我が軍玉砕、痛恨。

七月二十日(木)曇時々雨暑 朝、東条内閣総辞職のラヂオ放送を聞く。中庭で増井さん(歴史)の壮行会(応召、但し身体検査で即日帰郷に)。組閣の大命小磯、米内両氏に下る。

七月二十二日(土)曇後雨 王子へ強制疎開作業に出動(高一生)。壊した家から再使用可能な角材、トタン板と廃材とを選び出して整理する。

七月二十七日(木)曇時々雨涼 赤羽に集まるが仕事がない。十時半解散、午後から新宿文化(映画劇場)に「暖流」を見に行く。もの凄い行列だったが坐れた。(作業二十九日まで)

七月三十日より夏休。八月十一日より短縮授業再開、物理、化学実験。
陸軍が校舎の一部(東側三階)を借りて入って来た(東部軍第○○○○部隊久保部隊との看板が校門に出た。○は数字。工兵部隊と記憶する)。

八月二十一日(月)晴暑 始業式。

八月二十六日(土)曇涼 フランスで米英軍パリに侵入と。

九月二日(土)晴暑 文科一年(十九期)の作業壮行会。日立戸塚工場へ来週から。

九月十二日から二十五日まで理一甲一組北千住の食品工場に動員、軍用携行食の製造。魚粉、野菜粉、馬鈴薯粉などを混ぜ、それに油と膨張米、水飴を入れてかき回し、熱で固めて切断する。(出来損ないは食べてよかった! ほかに中隊長の命令下でのみ食すと書いてある白い干菓子状のものがあった。絶対手を出すなといわれた。日本軍も興奮剤などを使うのかと嫌な気がした)。

九月二十三日(土)晴暖 卒業式(十七回生、二年の斎藤清氏も応召で繰上げ卒業)。

九月三十日(土)曇時々雨暖 夜大宮島(グアム島)、テニアン島の皇軍全滅を知る。

十月二十四日(火)晴寒 六限玉虫さんの有機化学、皆緊張していた。果たして面白かった。(掛川先生の講義だけではとても有機まで進めないとして、玉虫先生に特別に講義をお願いし、快諾頂いたもの。半年続いた)。

空襲の合間の授業

十月二十八日(土)曇涼 神風特別攻撃隊敵空母に命中と発表。

十一月一日(水)晴暖 五限化学の授業中警戒警報出る。高空に敵大型機が飛行雲を引いていた。寮へ飛んで帰ると間もなく空襲警報が出る。東部軍情報、敵機数機高々度より京浜地区に侵入中と。(これ以後空襲が増える)。

十一月六日(月)晴暖 寮で夜読書会「こころ」漱石。

十一月七日(火)晴暖 一時頃警戒警報、寮に帰ってゲートルをつけていたら突然ドカンドカン高射砲が鳴り出し敵機だとの声に防空壕に入る。B二九飛行雲をひいて旋回。

十一月二十四日(金)晴/曇暖 四限に警戒警報、寮で昼食中空襲警報、敵編隊次々来る。高射砲中らず、味方機影少なく、切歯扼腕。敵機約七十機、撃墜たった三機と。

十一月二十五日〜十二月一日まで期末考査の予定が空襲のため二十九日で終る。

十一月二十七日(月)曇後雨寒 一、二限物理、三限英語試験。試験場で睡いのは初めて(連夜の空襲で睡眠不足甚だしい)。

十一月二十九日(水)晴 化学試験、調べて置かなかった炭酸ソーダの製法が出た。明日の数学の準備一通りすんだ夜十一時半頃空襲警報、轟音に壕から首を出して見ると東南の空に焼夷弾の火が見えた。花火のようだった。やがて東南の空が真っ赤になった。四時頃再び来襲。

十一月三十日(木)雨寒 昨日は神田錦町、三越付近、神田駅付近が燃え、四時には芝、麻布、六本木あたりがやられたと。試験なくなる。

十二月十六日(土)曇一時雪寒 警報がなく久し振りに正規の授業あり。化学実験反応速度、午後教練うす雪のなか。

十二月二十七日(水)晴寒 昼食中空襲。敵編隊続々至る。味方機白煙曳き落つ。爆弾の音ヒューヒューというのを聞いた時はびくっとした。敵七編隊来る。味方機体当りし共に白煙をあげて落ちるを見る。味方の重戦闘機一機フラフラと療養所の方に落ちてきたが、途中二人落下傘で降り歓喜していたら、一つ開かないで速く落ちて行くのがあった、嗚呼。二時半空襲解除。寮から三百米位南に二軒家がつぶれ、一人壕に埋められたというので、掘出しを手伝ったが、途中で死人が出かかったので逃げ出してしまった。夕方その家の整理に応援を頼まれる。よく見たら二階がなくなっていた。寮の賄いのそばに十二・五ミリ機関砲の薬莢が落ちていた。

十二月二十八日(木)曇時々晴 今学期最後の日なるも授業あり、昼休に成績注意。午後教練さぼって帰郷の準備。夜弟二人(慎独寮生)と共に上野駅より新潟行の列車に乗る。警報下で真っ暗な上、大混雑で弟たちとはぐれ、翌日昼過ぎ新潟駅で再会、帰宅。

警報下に迎える昭和二十年

一月一日(月)雪寒 屠蘇がなく、梅酢で代用、雑煮に満腹。(新潟では餅も何とか手に入った)。

一月四日(木)曇寒 上京、朝九時出発夜九時帰寮。

一月五日(金)晴暖 寮の朝飯黒くてボロボロで不味い。九時軍人勅諭奉読式、授業もあり。

一月九日(火)曇後晴寒 五限森さんが電波兵器のブラウン管について講義中空襲警報、本部に詰める。先ず北より続いて西より敵機相次いで来る。味方機一機壮烈なる体当りをなし火煙上がる。敵機も煙吐きつつ遁走せるも、味方機はひらひら火を吐いて落ちた。

一月十八日(木)晴後曇寒 二限終了後高等科寮火事の声を聞き仰天して駆けつけたら、双桂から煙がもくもく出ていた。あわててバケツリレーで水を運んで消火に努めた。ようやく久保部隊のポンプが来てほっとしたが、火は屋根裏、一階と二階の間に廻っていて消し難かった。一時は左手が凄い炎で、賄いに火が移ったらと心配したが、消し止めた。十一時半頃か。それから後も一騒動、荷物はほとんど運びだしたが、汚れたので芝生で乾かし、愛日寮の前は大混雑。午後の教練を潰して整理、荷や本は愛日寮内にしまい、双桂寮生は愛日二階北側の二部屋に泊った。

夜読書会「科学への道」石本巳四雄著。昼の労働後のことでもあり疲労を覚ゆ。

二月六日(火)曇寒 アメリカ軍遂にマニラに突入と。

二月八日(木)曇寒 朝一面の銀世界。横井さん久し振りの授業、物理はジュール効果の実験、午後教練雪中行軍。理科系学生も今年入学者から入営延期の年齢制限短縮されることになった。

二月九日(金)晴寒 夜読書会、科学概論(田辺元)(以後二十四日まで計四回)。

二月十五日(木)晴曇寒 横井さん休みで畑さん積分二限続けてやられる。三限藤村さん休みで森さんの物理繰上げ、真空管の特性。(空襲の続く中、間隙を縫って授業は行われた。ある先生が休むと別の講義に振替えられた。)

二月十六日(金)曇寒 敵小型機多数来襲、朝より始まり一日中。寮の南側の空にグラマンが低く乱舞し機銃掃射した。機銃の火さえ見えた。敵二機煙吐き落ちる。敵機動部隊よりの延べ一千機、飛行場、鉄道、船舶を攻撃せる模様。

二月十七日(土)朝から空襲。爆音、高射砲音、機銃音錯綜。敵編隊寮の上空を東に行った時奇妙な楕円形のものが落ちた。後で燃料補助タンクと判る。

二月十八日(日)晴やや暖 新兵器風船爆弾米本土に損害と米発表。

二月十九日(月)晴時々曇やや暖 四限畑さん偏微分試験。六限サイレン、B二九侵入。寮に帰った時、西から東に飛ぶ編隊の一機が突然真っ逆様になって墜落した。歓喜。

二月二十日(火)晴寒 硫黄島に敵遂に上陸との報。

二月二十五日(日)曇後雪寒 艦載機の来襲、午後雪のなかB二九の爆撃、緊急補助隊員として本部につめる。敵機ひっきりなしに来るが、見えないのが恐ろしい。豊島園方面と、東の方向に煙が上がり、雪空を暗灰色に染める。

三月五日から十二日 期末考査。

三月六日(火)雨後曇寒 高二生、文一生夫々長期の勤労動員終え、学校に戻る。

焼夷弾の雨

三月九日(金)晴寒 〜 三月十日(土)晴暖  ドイツ語小牧さん音信不通で試験は和訳。有機化学(玉虫先生の試験)は酒石酸の異性体、ぶどう糖と果糖の比較など、なんとかできた。夜化学をやる(無機化学、掛川先生)。警報下、遮蔽したスタンドに頭を突っ込んで勉強していたら十二時過ぎ京浜地区に侵入との情報と同時に高射砲音を聞く。B二九東南方から一機ずつ姿を現わす。低く飛んでサーチライトの光の中にくっきり浮かぶ。高射砲音や、高射機関砲の赤や青の曳光のなか、バラバラと焼夷弾を落とす。チラチラと赤い光の粒粒は地上の家影に隠れる。大きな翼、四つの発動機がはっきり見える。地上から火の手は上がり、やがて煙が入道雲のごとく起つ。空は探照燈も要らぬほど明るくなった。と見よ、敵一機、真っ赤な火の玉となり、あたり一面輝くばかりの光を発し、バラバラに分解して落ちて行く、歓喜! 空襲は二時半頃まで続き、火は水平視角九十度位まで広がり、赤い光が寮の窓に映じた。机の上で化学ノートを広げたら「平衡移動の法則」という字が読めた。朝東南の空はまだ凄い雲。電車不通で休校となった。

三月十二日(月)晴暖 本日化学と英語の試験。空襲の被害は墨東一帯から浅草観音、増上寺、日本橋白木屋、都庁、大審院等々。死者二万、罹災家屋二十万、罹災民八十万とも聞く。

三月十五日(木)曇寒 朝正座中サイレン、授業なし。夜読書会ハムレット。

三月十六日(金)曇寒 出席者少なく授業やめ、畑さん空襲で罹災した状況を話す。尋常科入試定員に満たず、選抜行われず。

三月二十二日(木)曇暖大風 硫黄島の皇軍十七日最後の総攻撃と新聞報道。

三月二十四日(土)曇寒 終業式。今年の落第生、理一甲一組で五名(クラス員二十八名)。なんと多勢落としたものだ。夜双桂送別ストームに来る。共に庭に出て、デカンショ、惜春賦など歌い、両寮の万歳を唱えて終る。(双桂寮はすでに武蔵野稲荷の近くの民家を借りて再開していた)。

三月二十五日(日)晴暖 愛日寮卒業生送別ピクニック。京王多摩川から稲田登戸まで多摩川べりを歩く。渡し舟で川を渡る。水は澄んで美しい。

三月二十六日(月)晴暖 十八回生卒業式(二年で高校終る)。夜(寮の)送別会。卵焼、赤飯など出て、久し振りのご馳走だが、量が少ないのを恨みとす。

長期勤労動員 武蔵空襲被害

四月三日(火)晴暖 入学式、編入生入寮希望者面談。

四月五日(木)曇寒 秋山先生補講(微分方程式、六日も)。陸軍久保部隊の領域が学校の二階まで広がるので引越しの手伝い。寮の部屋割り、係を決める(小生は総務、他に会計・食堂、農園・衛生、防空、図書、音盤の係)。小磯内閣総辞職。

四月七日(土)晴暖 朝空襲大編隊で来る。電波探知機よけの錫箔テープが降って来た。午後から(校庭の)畠にジャガイモ、大根、蕪、人参、ねぎ、春菊など蒔く。数日前沖縄に米軍上陸し、戦局益々急。鈴木貫太郎内閣も容易でない。

四月十日(火)雨暖 我々理科二年、板橋志村の日東金属に動員(終戦まで)。入所式、作業服支給、班分け、鋳造第一班の班長にされた。七百五十度の炉でアルミ(造幣局が回収したアルミ貨幣)を溶かし、円筒形の型に流し込んで棒を作る。(五銭や十銭も紙幣になった)。

四月十三日(金)晴暖 〜 四月十四日(土)曇暖  初の電休日。夜遅く空襲警報、敵機一機ずつ侵入。焼夷弾により火災多発、まず東に火の手、次いで北に更に南と西にもと爆撃が迫って来る。寮生は皆寮の横の陸軍が造った防空壕に入っていた。今井俊博と鈴木武男の二人は大胆にも壕の入口から空を仰いで、焼夷弾の弾道(火花で判る)を監視していた。一時五十分頃、突然「今度はほんとに真上だ」との叫び声とともに二人が壕内に転げ込んできた。身をすくめた一瞬壕内が明るくなり、轟音がやんだように感じた。ソレッと全員一斉に壕を飛び出す。眼に入ったのはグランド一面に狐火のように点々と燃える炎だった。寮はと見ると玄関の軒に火、前の芝生の火は踏んだらすぐ消えた。全員消火にかかる。私は裏手に回ったが、北側食堂寄りの室の窓に火、すぐ洗面器の水をかけて消す。ほとんどの火は簡単に消えたが、便所の天井裏と二階北の屋根に火が残る。便所は天井板をはがし、真上に水をかけて消火(私と大和)、最後に残った二階北屋根は大鷹が、窓枠に手をかけ、半身乗り出してかけ声とともに水を鍋ごと放り上げて消し止めた。見ていた全員がほっとした一瞬であった。寮の前庭に集まって見ると、学校側に大きな火の手、慎独寮と思われた。早速半数の人員を応援に差し向けた(大鷹、稲垣、梶原、永井)。残り(大和、中込、今井、三宅と私、鈴木はまだ寮生ではなかった)は未だ続く空襲に備え愛日で警備、裏の双桂寮あとと賄いのオッチャン、オバチャンの無事を確認。(ところが時限爆弾騒ぎが起って事態は混乱する)。我々のいた防空壕と雨天体操場の間に大きな爆弾のようなものが地面に突き立っているのが発見された。久保部隊に連絡して見て貰ったら、時限爆弾だ、すぐ退避せよとの命令だ。(この時点で総務としての私は寮生を掌握できなくなってしまった。自分の家だとか親戚だとか、色々な方向に散ってしまった)。私と中込の二人は校庭南側の壕に身を潜め、何時爆発するのかと気が気でなかった。早暁あまり寒いので、壕を出て慎独寮の方へ行って見る。剣道場は焼失して面の金属部分だけがごろごろ転がっていた。慎独寮はほとんど焼け、北側の僅かの部分を残そうと、寮生が手押しポンプを働かせていた。手伝うべきだろうと思いながらも、肉体的精神的疲労感と、時限爆弾の心配のため、素通りして講堂に来て休むうち、夜が明けた。空は煙のため曇り、太陽がまんまるの桃色。寮の近くは縄張りがしてあって、近寄れない。しばらくしたら、時限爆弾は誤りとわかり、寮に戻った。焼夷弾を束ねた枠の上の尾羽根を爆弾と見誤ったものであった。落ち着いて調べたら、焼夷弾は寮の玄関前に二つ、裏に二つ、その他近くに約十個の六角筒(焼夷弾の抜け殻)が地面に刺さっていた。玄関横東側の部屋には不発弾一発、ほかに軒を貫いたものは三発、北側二階の軒と、便所に当たったものと、も一つは二階西南の部屋の軒を貫いて、窓際に置いてあった柳行李の上に六角形のプリントを残して反転、開いた窓から外に飛び出していた! 二階北の室に入ったら天井がこわれ、屋根に丸い穴があき、その下の畳を何かが貫いていた。下へ行って見ると北側物置の押し入れも壊れている。これこそ時限爆弾ではないかと肝を冷やし、久保部隊に連絡した。屋根を見て一人の将校が断言した。「これは爆弾ではない。屋根の穴がパンチで抜いたように綺麗な丸になっている。先の尖った爆弾なら、穴が下にささくれ立った形のはずだ」。私はこれに納得した。一階物置の押入れの下の地面をかき分けて見たら、直径四十センチほどの平べったい鏡餅状の金属が見つかった。焼夷弾の束の下につけた錘だった。不発焼夷弾は恐る恐る久保部隊に届けた。結局慎独寮、剣弓謡道場と金工木工室が灰塵に帰した。椎名町から目白まで焼野原。

(この日の空襲で武蔵に落ちた焼夷弾の束は三発と推定される。東から侵入した一機が続けて落としたものらしく、一発目は謡曲堂、弓道、剣道場と慎独寮にあたった。焼夷弾束は中空でばらけて、多数の焼夷弾が地上に楕円形に広がる。当時慎独寮にいた弟佐々木哲によれば、寮に落ちた火は寮生が消し止めたが、剣道場が猛火に包まれ、それが慎独寮に燃え移ったので、手がつけられなかったとのことだ。二発目は金工木工室から濯川に分布した。三発目が校庭に広がり、その西端が愛日寮に掛かった。以上は数日後、焼夷弾の抜け殻の分布から推定した。停電は数日続いた。)

四月十七日(火)晴暖 焼残りの双桂の瓦を剥がして壊れた愛日の屋根を直す。

焼け跡を歩く日々

四月二十日(金)都電の復旧まで工場は公休であるが、仕事はやっているので、赤羽から歩いて通う。池袋から板橋まで焼野原。

四月二十三日(月)晴暖 新入寮生歓迎会。ソ連軍ベルリン突入との報。

五月一日(火)曇暖 本日より公休でなくなる。大勢出勤し、張切って作業したので疲れた。

五月三日(木)曇暖 ベルリン陥落、ヒットラー戦死、ゲッペルス自殺、デーニッツ新総統となるとの報。感慨無量、終末はどうなる?

五月九日(水)曇後雨暖 夜読書会「生れ出づる悩み」有島武郎。

五月十四日(月)曇暖 工場の作業コークス運搬ばかり、夜読書会「愛と認識の出発」。

五月二十五日(金)晴暖 電休日。午後高田の馬場の祖父母の家へ行き、鴎外全集一冊もって帰る。夜三和舎監と会食。十時半頃警報。敵一機ずつ侵入、焼夷弾投下し火の手、東、南に上がる。風強くなる。ついに西北方にも焔が見え煙立ち込め目が痛い。

五月二十六日(土)晴暖 祖父母の家が心配で出かける。電車不通で歩いて行く。下落合のあたりひどく煙っている。果して高田の馬場の家は焼けていた。焼け焦げて黒い桐の幹に一同無事とあった。(近くのガントレット先生のお宅も焼けた)。帰途焼死体を見る。

五月二十七日(日)晴暖 昨日の被害、中野、麹町、小石川、渋谷、大宮御所はじめ、各官庁、文理大、慶大、歌舞伎座、演舞場、東京駅、新宿駅など。沖縄戦我軍大勝利のデマを聞く。

五月三十日(水)晴暖 工場へ行く。板橋駅半焼、バス少なく出勤者少なし。仕事もなし。

五月三十一日(木)晴暖 工場給料四、五月分支給、交通費とも八十一円五十銭。

六月三日(日)晴暑 夜鈴木(武男)、伊豆(共に文二)入寮歓迎会、闇汁。大豆、さやえんどう、そら豆、ごぼう、人参、杓子菜、たまねぎ、味噌、酒粕、だしじゃこ。大変うまく、満腹。

六月六日(水)晴暖 作業平常通り。級友に誘われ、夜日比谷公会堂に日響のコンサート聴きに行く。ベートーベンの第六と第八、尾高尚忠指揮。内田(星美)、中谷(林太郎)、大坪(秀二)先輩ほか武蔵生多し。(このころ楽団員は国民服にゲートルを巻いていた。)

六月十日(日)曇暑 朝警報、部屋で本を読んでいたら凄まじい音がして寮がガタガタ揺れた。十時頃解除、工場へゆく。この頃身体を悪くする寮生多し。

六月十五日(金)曇暑 工場で昼休み音楽会。歌とヴァイオリンとギター演奏。歌唱指導。夕方、級友数人と日響へ第九聴きに行く。早かったので銀座を歩いて見た。全く焼けて何も無いが、人は歩いている。合唱は東京高等音楽学院、独唱は矢田部頚吉、木下保、四家文子、ソプラノは三宅春惠のところ誰かに交替。男の合唱がやや貧弱だったが、きれいに聴けた。

六月二十四日(日)小雨暖 夜慎独寮復興会に出席。(荒巻教授の家を借り、慎独が寮生活を再開した)。篠崎先生(図書)の話、先日罹災された鹿子木練子先生をお見舞いに伺ったら、先生は焼け跡に立って、Ganz und gar nichts, aber Geist gefunden. と言われたよし。

六月二十五日(月)曇暑 沖縄我軍最後の突撃、音信絶ゆとの報。

六月三十日(土)雨暖 工場で火傷を負う。右脚、右ひじ、右脇腹。

七月二日(月)曇涼 文科二年も日東金属に来る。

七月十日(火)晴暑 空襲の中、簡閲点呼に本郷真砂国民学校へ。池袋からの都電で二度退避させられた。午前呼名点検、午後徒手教練、学科、銃剣術。(徴兵検査の一年前の点呼)。

七月十四日(土)曇暑 海軍の水兵が工場勤務に来る。

(七月に入って、空襲は続くは、工場の仕事が少なくなるはで、意欲も薄れ、サボる日多し。)

敗戦

八月三日(金)晴暑 工場で(米戦闘機)P51の来襲(機銃掃射)を受ける(蜘蛛の子を散らすように炉の前の溝や机の下に退避)。

八月七日(火)晴暑 工場休む。昨日広島に敵新型爆弾投下、被害大なりと。

八月九日(木)晴暑 本日0時頃よりソ聯軍満州、北鮮方面に行動開始。モロトフ外相戦闘宣言、遂に時局はどん底に至った。死に対する覚悟をしなければならなくなった。

八月十日(金)晴暑 朝から警報、B二九編隊空襲、凄まじい爆撃音、天井板の隙間からゴミが落ちてくる。

八月十一日(土)晴暑 敵は九日長崎にも新型爆弾(原子爆弾だと言う)を使用した模様、帝国抗議す。

八月十二日(日)晴暑 学校の教練の小銃応召されることになり、搬出の手伝いする。その後工場へ。一昨日の空襲で(志村)坂下あたり大層ひどく壊れている。工場も屋根や壁がめちゃめちゃ。夜、日本が遂に講和を申し込んだらしいとの噂を聞く。工場に来ている海軍士官から佐藤新一教授が聞いたと言う。昨日あたりから新聞しきりに国体護持を書き立てているのが怪しい。この噂真実としたら無念やる方ないが、言うべき言葉もない。

八月十三日(月)晴暑 朝から艦載機の空襲で工場にも行けぬ。寮生皆で食べたり遊んだりしている。塚本さんが空襲も今日限りだろうと言う。

八月十五日(水)晴暑 七時頃ラヂオで本日正午天皇陛下が畏くも放送なさると報じたので、いよいよと思い工場への出勤見合わせ、部屋の掃除をして待つ。正午、君が代の奏楽の後、陛下は御自ら米英ソ支四国共同宣言受諾の詔りを宣らせ給うた。玉音を拝して恐懼の感に耐えなかった。ポツダム宣言によると我が版図は本州、四国、九州、北海道と小島嶼ということになる。軍隊は武装解除、軍需工業停止その他色々、これからどうなることか、どうすべきか……考えて見れば必勝の信念にのみ頼りすぎ、精神力を高く評価しすぎ、物質の量について考えるところ少なくなかったか。……町の様子、皆やはり元気ない顔であるが平静、郵便局では払戻しする者が多いらしいが、それに制限は加えぬとの蔵相の声明。

(敗戦の日の日記には建前ばかり書いているが、実を言えば、もう空襲もない、助かったと、ほっとした感情があった。連日連夜の空襲に肉体的にも精神的にも疲労が溜まっていた。夜久保部隊の将校達何人かが軍刀を抜いて濯川のほとりの木々の枝に切り付けていた。私は寮の部屋で灯を消し息を潜めて様子を伺っていた)。

(学校からは通知あるまで自宅待機とのこと、東京には食料もなかったので、池袋駅に徹夜で並んで切符を手に入れ、二十一日新潟に帰った。級友からの連絡で学校は九月三日から始まると知ったが、実際寮へ戻ったのは九月十四日だった。敗戦から一月で学校は復活した。しかしこの後、厳しい食糧難、猛烈なインフレが待ち受けていた。) 以上(2015.5.11)



<会報58号掲載寄稿のフルテキストバージョンです>